古来の日本は江戸時代に「三貨制度」が導入されるまでは、「渡来銭」などの海外の貨幣が流通していました。しかし、「三貨制度」が導入されると、金、銀、銅を使った貨幣が流通されるように、その象徴として大判小判が作られたと言われています。
では、江戸幕府が発行した「元禄小判」、「宝永小判」、「正徳小判」、「享保小判」、「元文小判」とはどのようなものなのでしょうか。
そこで今回は、江戸幕府が発行した元禄・宝永・正徳・享保・元文小判について詳しく解説していきたいと思います。
江戸幕府が発行した元禄・宝永・正徳・享保・元文小判とは?
大判小判は天下を統一した豊臣秀吉が改革のシンボルとして作られたもので、日本の古銭の中でも有名ですよね。
大判小判は主に金を使って製造されることもあったので金貨に分類され、庶民の間で使われるというよりも位の高い大名などの間で褒賞として贈られることが多かったそうです。
江戸幕府があった江戸時代に発行された大判小判は非常に価値が高く、オークションでは1億5,000万円で落札されたこともあります。
それでは、江戸幕府が発行した各小判の特徴をみていきましょう!
元禄小判
「元禄小判」は1695年に幕府勘定吟味役の荻原重秀によって発行された日本の金貨の一つで、特に元禄時代(1688年〜1704年)の貨幣として知られています。
「元禄小判」は、江戸幕府が発行した金貨の中でも特に重要なものの一つで、白っぽい見た目をしていて、表面に「元禄」と刻まれ、裏面には年号などが刻まれているというのが特徴です。
宝永小判
「宝永小判」1710年頃に製造された小判ですが、財政の逼迫や自然災害などの影響もあり、金の含有率は「慶長小判」の半分程度となっています。
「宝永小判」の表面には「宝永」が刻まれ、裏面には鋳造地名やその他の印が刻まれていて、非常にシンプルなデザインになっているのが特徴です。
正徳小判
「正徳小判」は1714年に製造された小判で、金の含有率は「慶長小判」と同じくらいになったとされています。
しかし、財政難などの影響もあり、「正徳小判」には不純物が含まれることが多く、当時、朱子学者であった新井白石の理想とする質には及ばず、僅か4ヶ月で製造中止となってしまいました。
「正徳小判」はシンプルなデザインとなっており、装飾なども控えめで表面には「正徳」の文字が刻まれ、裏面には鋳造した地名などが彫られています。
享保小判
「享保小判」は江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗が改革を進めた「享保の改革」の時期に製造された小判です。「享保の改革」などで財政を見直す動きがあったものの、金の含有率が減り、貨幣の価値が不安定になってしまいました。しかし、米価の下落なども影響し、更なる財政難に陥ってしまいます。
「享保小判」は江戸時代に製造された小判の中で最も金品位が高いといわれ、表面にはござ目が刻まれ、桐紋や額面なども彫られ、裏面には光次の花押などがあるのが特徴です。
元文小判
「元文小判」は1736年から1818年頃まで使われていた小判だと言われています。
「享保小判」で多くの金を使ったことや長年、採掘し続けたことが原因で材料が足りなくなってしまいました。そのため「元文小判」の金の含有率は「享保小判」に比べて圧倒的に低く、幕府は流通していた小判を回収し、材料を確保していたと言われています。
「元文小判」は右側に「文」の文字が刻まれていて、他の小判よりも薄くなっていて、白っぽくなっているのが特徴です。
まとめ
今回は江戸幕府の頃に発行されていた「元禄小判」、「宝永小判」、「正徳小判」、「享保小判」、「元文小判」について詳しく紹介してきました。
江戸幕府の時代は乱れていた経済・流通を見直すために「三貨制度」が導入され、金、銀、銅の貨幣が用いられるようになり、財政上などが改善していきます。
しかし、質の高い大判小判を製造し続けることは難しく、各小判によって金の含有率などが大きく変わっているのが特徴です。
大判小判の質などから歴史的背景を読み解くことができるので、貨幣について知っておくことも大切かもしれませんね。