誰もが1度は耳にし、あったらいいと思ったことがある「徳川埋蔵金」ですが、一体なぜ見つからないのでしょうか。
「徳川埋蔵金」以外にも埋蔵金の噂はあり、多くの人が探していますが、これまで発見されたという情報は出ていません。「徳川埋蔵金」などの隠し場所などはどこなのでしょうか。
そこで今回は、「徳川埋蔵金」の謎である見つからない理由や隠し場所などについて、消えた御用金に迫っていきたいと思います。
徳川埋蔵金とは一体何?
「徳川埋蔵金」という言葉を聞いたことがあるという人が多いと思いますが、一体どのようなものなのかご存じでしょうか。
「徳川埋蔵金」は江戸幕府が大政奉還によって政権を朝廷に返した翌年である慶応4年(1868年)3月に西郷隆盛ら官軍が江戸に攻め入ろうとしたことが大きく関係しています。
西郷隆盛と勝海舟の交渉によって、江戸城は無血開城させることになり、城内部にある武器などが徴収されていきました。
しかし、あるはずの「幕府御用金」が金蔵にはなく、在処が明らかになっていないため「徳川埋蔵金」説が出ています。
徳川埋蔵金はいくらになる?
日本で最も有名な財伝説である「徳川埋蔵金」ですが、発見された場合いくらになるのでしょうか。
「徳川埋蔵金」は約400万両の金が埋まっているとされ、現在の価値に換算すると約3,000億円になるのではないかと言われています。また、「徳川埋蔵金」の価値は約3,000億円という意見もあれば、20兆円に相当するという声もあり、どの金額が正しいかは明らかになっていません。
しかし、「徳川埋蔵金」の価値が本当に約3,000億円〜200兆円という金額になるのであれば、多くの人が探しているのも納得ですね。
徳川埋蔵金の隠し場所はどこ?
現在の価値で約3,000億円〜20兆円とも言われている「徳川埋蔵金」ですが、一体どこに隠されているのでしょうか。
「徳川埋蔵金」の隠し場所に関しては諸説ありますが、その中でも有力だと言われている所を紹介していきたいと思います!
上海
日本国内にあると考えられている「徳川埋蔵金」ですが、実は中国・上海にあるのではないかという説もあります。
江戸城が無血開城され、城内部の調査が行なわれたのが1869年4月11日です。江戸城の中には幕府御用金が全くなかったため、官軍はお金を管理をしていた役人を尋問しましたが、誰も白状しなかったと言われています。
1869年4月16日の夜に、ブルガリア国旗を掲げている蒸気船が中国・上海に向けて横浜港から出発しましたが、その船に「徳川埋蔵金」があったのではないかと考えられているようです。
赤城山
「徳川埋蔵金」に関しては、中国・上海説以外にも群馬県にある赤城山山麓が有力だという説があります。
この説が有力だと言われているのは、江戸幕府などで勘定奉行を歴任していた小栗忠順がこっそりと自身の領土である赤城山周辺に運んでいたのではないかと考えられているからです。
実際に、群馬県赤城山周辺に「徳川埋蔵金」があるのか調べるために発掘調査が1990年〜1992年頃まで行なわれていました。しかし、正体不明の空洞を発見することができましたが、肝心の「徳川埋蔵金」は発見されていません。
まとめ
今回は「徳川埋蔵金」の謎について、なぜ見つからないのか、隠し場所はどこなのか、消えた御用金に迫っていきました。
「徳川埋蔵金」は1868年3月に起こった江戸城の無血開城が大きく関係しており、この時にあるはずの幕府御用金が発見されなかったことから財宝伝説になっているようです。
「徳川埋蔵金」は現在の価値に換算すると、約3,000億円〜20兆円にもなるとされています。
しかし、「徳川埋蔵金」の隠し場所に関しては、中国・上海説や赤城山説が有力だとされ、様々な説がありますが、未だ発見はされていません。