徳川家康は天下統一をしただけではなく、多くの貨幣問題を抱えていた日本を立て直した人物としても知られていますね。また、徳川家康といえば、昔から「徳川埋蔵金」を探し目止める人が多くいますが、なぜそのような噂が出ているのでしょうか。
そこで今回は、徳川家康とお金の関係性や慶長大判を発行した理由、「徳川埋蔵金」の噂の根源などを詳しく調査していきたいと思います。
徳川家康とお金の関係は?
天下統一を果たした人物として有名である徳川家康ですが、お金との結びつきもかなり強いことが史実によって証明されています。
徳川家康が天下統一をするまでの日本では、金貨などの貨幣は大名などの地位が高い人ばかりが使っており、一般の人たちは「渡来銭」や質の悪い「鐚銭」などを使っていたそうです。
このように、貨幣制度がなく、流通が滞ることが多かったのを解決し、立て直した人物が徳川家康なのです。
では、徳川家康がどのように立て直したのか見ていきましょう。
慶長大判を発行!
まず、天下統一を果たした徳川家康は通貨制度を立て直すために「慶長大判」などを含む「慶長金銀」を発行しました。
「慶長大判」は豊臣秀吉によって鋳造された「天正大半」と同じ164.9グラムという重さで、楕円形を形をしています。「慶長大判」には発行した後藤家の「墨書」や両面には品質を保証する「桐紋」などの「極印」が刻まれていました。
また、「慶長大判」は流通を目的とした作られたものではなく、褒美や贈り物として使われることが多かったそうです。
三貨制度を制定
徳川家康は貨幣の流通を円滑にするための「三貨制度」を制定しました。「三貨制度」は取引などに金・銀・銅の3種類の貨幣を用いることで、全国各地に3種類のお金が流通するようになったとされています。
また、「三貨制度」が元となり、後に誕生する両替商などの金融業の礎になりました。「三貨制度」が機能するようになったことで、それまで使用していた「渡来銭」の使用などを禁止するようになったとされています。
慶長大判の価値はどのくらい?
「慶長大判」は「慶長笹書大半金」、「慶長大判金」、「慶長大判金(明暦半)」の3種類があり、大きく価値が異なると言われています。
最も価値があると言われているのが、笹の葉のような紋様が刻まれている「慶長笹書大半金」で1,000万円〜2,500万円以上です。
次に高価なのは、100年近くに渡り鋳造された「慶長大判金」で500万円〜1,500万円くらいだとされています。
そして、3つの中で最も価値が低いのは、価格が400万円〜1,300万円前後と言われている「慶長大判金(明暦半」です。
徳川埋蔵金の噂の根源は何?
現在の価値に直すと、約3,000億円にもなると言われている「徳川埋蔵金」ですが、噂の根源は一体何なのでしょうか。
1868年に西郷隆盛率いる官軍が江戸に攻め入ろうとしたときに、勝海舟との交渉によって、江戸城の引き渡しが行なわれました。この時に、官軍は鉄砲などの様々な武器を発見しますが、金庫に入っているはずの「幕府御用金」が発見できなかったことが「徳川埋蔵金」の噂の根源となっています。
しかし、これまで様々な学者などが探していますが、「徳川埋蔵金」が発見されたという情報はないため真偽のほどは不明です。
まとめ
今回は徳川家康とお金はどのような関係性があるのか、「慶長大判」が発行された理由、「徳川埋蔵金」の噂の根源について詳しく調査してきました。
天下統一をしたことで有名な徳川家康ですが、貨幣の流通が滞っていた日本を立て直した人物としても知られています。それまでの日本は「渡来銭」などが流通していたこともあり、貨幣制度が成立していませんでしたが、「慶長大判」などを発行し、「三貨制度」を制定することで立て直すことに成功しました。
「徳川埋蔵金」は江戸城から金・銀が発見されなかったことが噂の根源になっています。